岸 英三の足跡


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古い話ですが、昭和36年(1961)から37年にかけてのシーズンのことです。
オーストリーからフランツ・デルブルというスキー教師がNHKと朝日新聞社の招聘により2人の若いスキー教師を伴って日本にやって来たのです。 1956年、トニー・ザイラーがコルチナ・ダンペッツォでの冬季オリンピック・アルペン競技の三冠王となり、猪谷千春が回転競技で日本人初の銀メダルが引き金となり、第1期スキーブームが到来していた頃のことです。
彼らは12月から3月までのシーズンの間、日本にとどまり、八方・志賀・蔵王で「オーストリー・スキー教室」を開きました。 日本人が助手として何人か協力したのですが、その中にオリンピック選手で、後にオーストリー国家検定スキー教師となった長野の杉山 進もおりました。  わたしは30枚出した申し込みはがきが運良く抽選に当たり、蔵王会場の講習会に出掛けました。

岸 英三(1922- )  篠木 真撮影
その時、毎日のようにわれわれの練習姿を見に来る1人のおじさんがいました。滅茶苦茶にスキーが上手なおじさんです。 そのおじさんは山形の山林王といわれた岸 三郎兵衛氏の三男、岸 英三というスキーの名手でした。昔はジャンプの国体選手だったのです。
太平洋戦争中、岸 英三は北海道大学の学生で学徒出陣し、海軍254戦闘機隊に所属していたのです。ゼロ式戦闘機に乗っていたのです。最後はベトナムに近い海南島の特攻隊におりました。そこで多くの戦友を失っています。兵隊の位は大日本帝国海軍中尉でした。
講習会の最後の日に、おじさんは私のところにやって来て、
「おまえは眼の光がいいから、俺の友達にしてやる」
と言いわたしの手を握りました。 変わったことを言う人です。驚きましたヨ。
地元の人におじさんのことを聞いていましたので、何のためらいもなく友達にしてもらいました。それからというもの、毎シーズン蔵王通いが始まりました。半世紀にわたる付き合いです。
おじさん、いや、おやじは昭和38年に、かの有名な「オーストリー・スキー教程」を著したシュテファン・クルッケンハウザー教授の来日に際し、チーフ・アシスタントをつとめ、翌年、クルッケンハウザー教授のもとにスキー留学をいたしました。そして、日本でのスキー・デモンストレーター第1号なのです。 ちなみに本書の訳者は、法政大学教授の福岡孝行でした。スキーのバイブルでした。
クルッケンハウザー教授はおやじのことを「わが友、わが息子」と呼びました。
おやじの夢は、スキー教師とスキーヤーが一緒に寝泊りできるロッジを持ち、スキー・スクールを開くことでした。 親父はまずインストラクターとなるべき弟子たちを育てなければなりません。 そして昭和40年、蔵王パラダイス・ロッジに部屋を借りて”Zao Ski School”を創立しました。 昭和42年には上の台ゲレンデに面した小さなロッヂを買い取り、そこにスクールを移し、現在の”Zao Heim Ski School”と改名しました。

岸 英三(2002年3月 79歳9ヶ月)


なつかしい物が出てきました 1986年のMild Sevenのモデルにもなりました
山形の専売公社が売りだした地域限定のMILD SEVEN

会長のギャラリー

最近、お絵描きに熱中しています。上の写真を撮った年くらいからです。それ以前に、私が毎年のように絵を描くと会長に進呈するのが習慣になっていました。何枚かが金山の自宅に置いてあります。

もともと絵を描くことは得意だったのですが、ちょっとばかり大病をしたのを境に、突如、精力的に描き出しました。それが、瞬く間に膨大な枚数の絵をかきあげ、絵筆の力も見違えるようになってしまいました。おどろくべきオヤジです。

岸 英三の生家(最上郡金山町)
  岸 英三の通った谷口分校(同上)
  ルテーニの裏通り(スイス)

2004年10月のスクールOB会から2005年の初めにかけて「画集の出版」が決まりました。1年がかりの仕事です。

2006年5月20日にOB会と「岸英三会長を囲む会」が開かれ、その会で画集の贈呈式が行われました。詳細は本ページの下の方にあります

会長のインタビュー 2005/3

Ski Journal 2005年3月号に会長のインタビュー記事が掲載されました。今年の6月末には83歳を迎えます。2005/3

日本スキー史、伝説の横顔 (pdf)

かくしゃくたる喋りをご覧ください

会長の寄稿 1996/11

Ski Journal 1996.11号に、会長がスキージャーナル30周年記念「特別寄稿」を書かれていました。私は見ていませんでした。私の教え子の天野英男君が、会長が書いているからと保管してあったのです。それを送ってくれました。2006/6

特 別 寄 稿

会長が74歳のときに書かれた記事です。

岸英三のゆっくり人生

会長の画集が出版されたのだが瞬く間に完売となってしまった。

そこで、手にとって見られない岸英三ファンのために画集をこのサイトに掲載することにした。2008/1

「ゆっくり人生」 


現在の蔵王ハイム・スキースクール

2代目校長 岸  宏(1953- )
現在では、おやじの長男、岸 宏が蔵王ハイムスキースクールの校長を務めております。おやじは会長をしています。
日本体育大学を卒業後、オーストリー国立スキー学校に留学し、オーストリー国家検定スキー教師となり、その後もオーストリーの国立スキー学校のスキー教師として計6年間オーストリーに滞在しました。

最近では日本スキー連盟の基礎スキーの指導者として活躍しています。

ものごとの解釈の仕方が親父に似て大変ユニークで説得力があります。こんなスキー教師に一度コーチしてもらえば、あなたはスキーの何たるかがわかることになります。
どうぞ、蔵王上の台ゲレンデ、蔵王ハイムスキースクールの門を叩いてスキーの真髄を味わってください。 もちろん、ロッヂ蔵王スキースクールにお泊まりください。

小さなお子様にスキーをさせてみたい方はいらっしゃいませんか?

当スキースクールでは「子供スキー教室」を暮正月、春休みに開いています。合宿形式で小学生以上の子供を預かってくれ楽しくスキーを教えてくれます。小さな子供たちが蔵王の山頂から温泉まで滑って降りてくるのですよ。生活上の面倒もすべてみてくれますから躾にもなります。わたしの2人の娘は、こうしてスキーが一人前になりました。おまけに山形弁までおぼえました。「んだ!」


校長 岸 宏

蔵王ハイムスキースクール・ロッヂ蔵王スキースクール
990-2301 山形市蔵王温泉上の台758-5
Phone : 0236-94-9357(代)
Fax : 0236-94-9359

e-mail : zaoheim[at]circus.ocn.ne.jp

案内地図 pdf

Ski netのスクール案内
http://www.skinet.co.jp/school/zaoheim/

額賀先生のページへ
http://www10.plala.or.jp/h-nukaga/

鉾田スキークラブの皆さんは岸 宏の指導を受けています。
ビデオなども入っています。(2003.1改訂)

昭和53年に若山ゼミの冬合宿を蔵王でやることになりました。それ以来蔵王での合宿が恒例となりました。昭和56年からは夏の合宿も蔵王でやることになりました。それまでは、スキーシーズンしかオープンしていなかったのです。したがって、およそ30年の歴史があるのです。


スクール初期の名スキーヤーからの便り

渡邉鐵男

岸 英三はパラダイスの時代にスキースクールを開設するためにスキー教師を育てたと書きました。その頃、岸 英三の一番弟子と自他共に認めていた渡邉鐵男というスキーヤーがいました。ところが30過ぎの頃、交通事故により鐵チャン先生はスキー教師の道を絶たれてしまいました。鐵ちゃんを知っているのは、地元の人か、スクール開設前後に岸 英三のところに通っていた人しかいません。

最近、鐵ちゃんから一枚のハガキが届きした。会長の「画集」を編集することになったと言う知らせです。私も何か原稿を書くことになっています。(2005/3/24)

その鐵ちゃん先生が昨2004年にホームページ「ばるーが街道」を開設していました。ばるーが街道とは彼が若い頃から通いなれた横手から山形の国道13号線沿いを、想い出をこめて、そう呼んでいるのです。今はスクールOB会のサイトを運営しています。

ばるーが街道の”Valluga”とは、オーストリー、サンクトアントンの山の名称であります。大きなスキー場があります。かつて、鐵ちゃんが経営していたレストランの名前でもあります。名付け親は、もちろん岸会長です。

渡邉さんのホームページ「ばるーが街道」の中には蔵王パラダイス時代の思い出が書いてありました。

早朝、そっと起き出して「横倉の壁に行ってくる」とあります。

蔵王をご存知の皆さんには、横倉の壁と言えば斜度38度の斜面であることくらいは知っていることでしょうし、滑ったこともある方も多いと思います。スクールのレッスンが始まる前に、横倉を2本滑ってパラダイスに戻るのです。

ところが、当時の横倉の壁というのは現在とはまったく様子が違うことをお伝えしておきたいのです。現在のような整備されたコースになっていたのではありません。

百万人ゲレンデの台地から右の谷に落ちる落差200〜300メートルの崖があり、崖っぷちは至るところに雪庇があり、危なくて近寄りがたいところでした。不用意に近づくと雪庇ごと落ちて、さらに雪崩れて下まで落っこちるのです。その雪庇の切れ目から深雪のなかに飛び降りていくのです。雪がしっかりついて崩れない時期にならないと滑れるものではありません。ちょうど、現在は木が生えていて滑れないところです。昔は、すべて木々は背も低く雪の下に埋もれていたのです。

上の鐵ちゃん先生の写真を見て、現在69歳のおじいさんに見えますか?眼の光は40年前のままです。思い出しますねぇ、あの頃はどんなに雪が降っていようと、風が吹いていようと、スクールの校長はじめインストラクターはセーターの上には何も着ずに滑っていたものです。もこもこしたものを着ていては生徒に身体の線も使い方も見えないのです。

おまけに、当時の気温は今よりうんと寒かったのです。80年代に入ってから暖冬、暖冬と言われるようになったのです。現在では積雪も多い年で3メートル少々、当時は4メートル台でした。


渡邉鐵男 1966/2
ノイマイヤーの言う「山腰、前」を見せる
さて、私がコメントを書く絵が送られてきました。錦城高校の絵です。コメントも書いて送りましたので画集の1ページだけ見本が出来てしまいました。 ⇒見本 2005/4/5

ちゃん先生から電話がありました(06/2/24)

5月20日(土)に蔵王ハイム・スキースクールのOB会を開催します。

当日は完成した会長の画集をご披露し、会長にささげたいと思います


画集「岸英三のゆっくり人生」 2006.5.20

岸 英三先生を囲む会

2006年5月20日 シェーネス・ハイム金山

新庄の駅に着いたら天気予報とは違って五月晴れの空でした。シェーネス・ハイム金山には60人ほどのOBとスクール関係者で貸切状態でした。それぞれが懐かしい顔に出会えて嬉しいひと時を過ごす事ができました。

鐵ちゃん先生が苦労してまとめたこの画集は、岸 英三のあの眼で見てきた様々な光景が描かれている。人には真似できない鋭い観察力と見事な構成力と表現力がこの一冊の画集に凝縮されている。

ご本人は「これは俺の趣味だ」と言っているが、趣味の世界をはるかに超えた芸術の世界だ!描かれている風景にも人にも自然にも「いのち」を感じる。みな活きているのだ。

この画集をご覧になりたい方は、「ゆっくり人生」


ホテルのテラスで集合写真

シェーネス・ハイム金山

挨拶:渡邉鐵男 OB会会長     司会:岸 尚彌

久しぶりに会った美奈子が撮ってくれました

余興の恵比寿舞に盛り上がり

蔵王ハイムスキースクールOB会「シュネーモンスター」のホームページが開設されました。(2007/4/1)

編集・制作は渡邉鐵男さんです。鐵チャン先生はOB会「シュネーモンスター」の会長を結成以来務めてこられましたが、昨2006年5月のOB会で橋本正さんに会長の役をゆずりました。それから、このホームページの作成に取り掛かったのです。

クリック⇒ 



マゴス時代のマッコ

ハイム関係者の溜まり場でしたが、ビル取り壊しで2008年4月に閉店しました。

現在はまっこは元気にしています。⇒マッコのサイト(マゴスプランニング)


わたしも人並みには滑ります

用具の進歩によっても滑りは変わります。
新しいテクニックが生まれて滑り方が変わります。
用具にも技術にも変遷がありました。

しかし、私にとってエッジで滑るというスキーの本質は何も変わっていません。
滑る方向もスピードもすべてエッジでコントロールしているのです。
いいスキーヤーほどエッジ操作がしやすい姿勢と重心の位置を保っています。
斜面やスピードの状況に応じてスキーの一番いい場所に乗って滑りたいものです。


中央ゲレンデ 鳥兜 1965.4 西尾俊昭撮影


中央ゲレンデ  もみじ峠 1965.4 西尾俊昭撮影


急 斜 面 2 題


万座白根弓池壁(噴火口壁) 1967

落ちたら火口湖の中、スリルあるよ


八方尾根第一ケルンから右下の沢に落ちる斜面

4月で重い雪だった



蔵王 中央ゲレンデ 三五郎リフト上 1982 篠木 真撮影


中央ゲレンデ 1982 篠木 真撮影


1982 篠木 真撮影


竜山ゲレンデ 1984 篠木 真撮影


竜山 1984.2 篠木 真 撮影


板の性能が変わっているのが判ります


ハーネンカムからCコースへ  1995 氏川撮影

胸に付けているバッジが見えますか?

私が大昔に「バッジテストを受けようか」と言ったことがあります。当時の岸 英三校長は「そんなもの必要ない。お前にはもっと大きいバッジをやる」と言ってくれたのがスクールのバッジでした。したがって、私は1級のバッジも持っていません。

スクール開校当時、何種類かのバッジが作られていました。校長のバッジは「PRESIDENT」、インストラクター用は「INSTRUCTOR」、私にくれたバッジは「DIRECTOR」でした。こんなスクールのバッジを持っているのは私だけでした。岸 英三がどれだけ私を大事にしてくれたかを物語るバッジです。


若山ゼミの学生は皆蔵王ハイムに来ました

1978

熊 野 岳 山 頂


              9期生 竹林 充 若山 天野英男、村松三生

天野と村松が交代して撮った写真の合成です。
彼らの自作卒業アルバムにパノラマ写真だといって、
5枚くらいの写真を糊で貼り合わせてありました。

その写真を元に画像処理をして、この美しい写真が出来ました。
2日かかりました。

大部分のゼミの本隊とは地蔵山で別れ、屈強な4人だけで熊野を目指しました。
ふわふわの雪が積もっているのではありません。
樹氷と同じく、がりがりのえびの尻尾が山を覆っています。
それ以外の滑らかに見える斜面はクラフトしています。
滑りに自信がないと降りてこられません。

しかし、ここは天国でした。

吹雪かれたら本当の天国になります。
ホワイトアウトという現象が起こります。
それで動き回ると必ず遭難します。

沢山遭難して死にました。
今では地蔵山にさえ立ち入り禁止です。

この年は体育会山岳部主将竹林がいたので2月にもかかわらず、
「先生、あそこまで行きましょう」
「よーし、行こう」

地蔵山の頂上からさらに熊野岳まで登ってしまいました。
竹林は走って登って頂上から見下ろしています。
山岳部主将というのは人間ではありません。

冬季にここまで行ったのはこの年だけです。
竹林のお蔭で、いい想い出です。

日本海と太平洋が見えました。
ちなみに若山君、37歳です。
これは一生に一度きりの写真になりました。

おれは村松にこのページを見せたかった。

    

1981


1981年2月 12期生 少し奥がドッコ沼です。
笠間 入江 中河 藤本 畑 若山 金子 小野 鹿島

この時代はダイヤモンドバレーも見返りリフトもありません。
ケーブルを降りてドッコ沼経由で中央ゲレンデまで担いで歩きです。

実は丁度よい準備運動となるのです。

今は、歩く場所がなくなりました。
バカなお客とアホな業者のなせる仕業です。

「スキーは担いで登る」のが基本です。

    

1982


1982年1月 13期生  若山 岡山 荒井 伊藤 村上 土屋 山岸

この頃は蔵王合宿を冬と春にやっていたようです。↑が1月、↓が3月。


1982年3月 三郎リフト上 OBと 3年生が初参加
後藤(3年)、畑(81卒)、竹林(78卒)、飯島(78卒)、中山(78卒)、伊藤(4年)、若山、松本(3年)、村松(78卒)

この年のサプライズは中山でした。4年生のときに初めてスキーをやりました。
スクールに入ってボーゲンを習っていました。
その中山が「1級」になっていました。

私と同じ靴をはいています。

    

1983


1983年1月 お地蔵さん

関口 小田 穂垣 坂田 松本 典子 永瀬 後藤 杉江 ?若山?

1月で雪が少ない!

この写真は3枚の原画の合成です。関口と坂田がカメラマンで交代して撮りました。

地蔵の頭に乗っているのはおまけです。

82年1月の写真も山岸を挿入してあります。

    

1984


1984年2月 ハイム前

岸 宏がいます。 まだ、2代目校長になる前だと思います。

    

1985


85年2月の上の台ゲレンデ、後ろは竜山です。
後列:五味、金本、松井、田村、松沢、松井、永瀬、粕谷、小野、広瀬、伊藤、三宅、小川、中山
前列:素子、あゆ美、淳子、仁美、典子、岸校長、若山、関口、小泉、成美、飯島

岸 英三校長(会長)が写っています。大正11年戌年です。

これはスクールの専属カメラマンだった篠木 真が撮ってくれたものだと思います。

淳ちゃんがいますが、思い出しました。

「会社の研修で蔵王に行けない」といって泣きました。

社長にすぐ電話をしてやりました。

「若山ゼミの学生は研修なんて出なくて結構です」

当たり前だよ!!

    

1986


1986年2月25日 パラダイスリフト上の樹氷の中

85年卒と86年卒、それに方倉が乱入

方倉からメールが来ました。「でも,なんでわかるんです?乱入したのがわたしと・・・」

「だって、モコが嫌がっているだろ」

金本がいない! そうか、カメラマンかぁ。可哀相だから入れてやろう。


何だか知らないがピースなんてやっている。


ロッジ前で

これから貸し切りバスで東京に帰ります。

この写真も金本と五味が撮った2枚から金本を切り出してモコの前に挿入しました。

    

 

1987


1987年3月 三郎の上

粕谷 飯田 及川 菊池 榊谷 若山 山本 関口 三宅 桜澤 中山 飯島

この写真も飯島を入れてやりました。

飯島はカメラマン専従のことが多いのです。

    

1989


1989年3月 中央ゲレンデ

永瀬、飯島、 関口、三宅、武田、高橋、鈴木、大畑、喜美子、桜澤、由利子、美智子、粕谷、若山、中山、ゆみ子、原、知子、塚田

88年度(20期)、89年度(21期)はゼミ生が5人ずつと少ない年回りでした。

でも、この2年でゼミ内結婚2組(大畑組・塚田組)の大当たり年です。

はい、これも永瀬を入れました。元の写真は永瀬と飯島がカメラマンです。

    

1991


1991年2月 23期生(3年生) 竜山ゲレンデ 

小寺 山内 徳永 橋本 若山 中村 波多野 広瀬 由美子 朋子

    

1992


これは1992年2月の蔵王合宿です。

この写真は上の台から蔵王ケーブルを降りて左手の山の上です。

ダイヤモンドバレーの帰りのリフトを降りたところの高台に登ったところです。

昔々の第3リフトの終点付近です。

    

1993


1993年3月 上の台ロッジ前

ハイムのインストラクター寒河江隆がいる。彼に習って上手になったゼミ生多数!!

    

1994


1994年 蔵王ロープウェー山頂駅

3年生、4年生、OB/OGでごちゃごちゃになっています。

蔵王地蔵尊を囲んでいるのがわかりますか?

昔はこの地蔵が雪に埋まってしまい、雪の中に隠れる時代がありました。

そうすると息が出来るように穴を掘ってやります。

穴の上から覗き込んでお参りします。

雪の量が1m半〜2m位多かったのです。

    

1995


95年3月らしい、のお地蔵さん前です。

あっこが持ってきて、あやちゃんが見せてくれた写真です。

    

1996


96年3月とある。 紅葉峠から連絡通路にちょっと入ったあたりだな。

    

1997


97年3月です。ここはユートピアゲレンデのリフト乗り場付近。

夏みたいな景色ですねぇ。

これも、カメラマンの朋子を別の写真からとってきました。

    

2005


この場所は三郎岳のような気がします。

中里さんがいます。中さんは若ゼミの一員になって蔵王に来るのが大好きでした。
誰も登ったことのない竜山に夏季も冬季にも一人で登りました。

2010年暮に急激にすい臓ガンが進行し2011年1月11日に亡くなりました。

孫を連れて蔵王に来ると言っていたのに・・・



地蔵山の樹氷地帯です。

この日は天気が悪く真っ暗な写真でしたが、ここまで明るくしました。

これ以上やると雪が真っ白になって飛んでしまいます。

    

2011

3月11日から最後の合宿の予定でしたが

 大地震で中止になりました(その詳細)

3月31日で定年退職しました

    


2012

1年後に蔵王スキー合宿が再開しました。もう学生はいません。

卒業生とその家族です。


青山  芳江  美喜子  山羽  男全
石川  知子  若山  ことり
石川美由紀・弘樹  青山脩・芳乃  山羽裕太・絢子

教え子達の子供達と蔵王合宿が出来るようになるとは何と幸せな先生だ


誰もいない上の台

スキー人口の減少、それに昨年の原発事故以来東北にスキーに来る人がいなくなった。この日、大平コースを滑っても人がいないのだ。昔、夜10時すぎにパラダイス・ロッジから上の台まで月明かりの大平コースをよく滑ったものだ。コースに人っ子一人もいない。


4月1日の霧氷(撮影:男全勝行)


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