歌と歌手にまつわる話

(112) もんプロの西蔭さん死去 


ジミー・スコットと西蔭嘉樹

西蔭嘉樹というジャズの招び屋がいました。もんプロダクションという招聘会社を75年に設立して、多くの有名なジャズメンを日本に連れてきました。この写真のジミー・スコットも招聘してくれました。

ポール・ロビの率いるプラターズは日本に何度も来ましたが、彼が招んでいます。当時、リードを唄っていたエルマー・ホッパーから「ヨシが死んだと聞いた」とメールが来ました。

8月頃から体調が悪かったようで、2009年9月13日前後に亡くなっています。

90年代以降は、普通の招び屋では呼ばないようなといっては言い過ぎかもしれませんが、大きな興行には向かないような人たちを呼んでくれました。流行を追うことはなく、地味でも真に価値のあるミュージシャンをよんでくれました。私にとっては貴重な招び屋でした。自分で「他所が呼ばないような者ばかり呼んでいるよな」と笑いながら言っていました。

ジミー・スコットにしたって人生の半ばは不遇のどん底にいた人です。遅がけに華を咲かせた歌手です。92年に初めて日本に来て話題になりましたが、2000年以降は西蔭さんが呼びました。2005年のときは車椅子でした。

フォーフレッシュメンも90年代に2度ほど来ましたが、2000年代に入って誰も呼ばなくなってしまってから、毎年のように呼び続けたのは西蔭さんです。日本のフォーフレッシュメン・ソサイエティはフレッシュメンのメンバーの歓迎会を開くために西蔭さんと話を通したこともありました。フレッシュメンとは4,5年続きましたが、その後は他所のプロモーターに移っています。

オーストラリアからジャネット・サイデルという弾き語り歌手を呼んだのも彼です。そのおかげでジャネットとは親しくなり、この間も久しぶりにメールを交換したばかりです。

マリーナ・ショーとは長い付き合いだったようです。西蔭さんは彼女の歌のうまさに惚れ込んでいました。ベニー・カーターとも古い関係が続いていましたが、日本で最後のライブは世良さんのトリオがバックをやりました。

数え上げればきりがありません。詳しい話は西蔭さんの本をお読みください。

2003年11月に、「ジャズジャイアンツの素顔」という本を出版しました。赤坂のライブハウス、Bフラットで出版記念のパーティがあり、私も招待されて出席しました。この本の扉をめくると、サインがしてありました。不思議な縁でしたねぇ。

2005年10月にはミルス・ブラザースをよびました。信じられませんでしたね。ミルス兄弟は1999年には、最後のDonaldも死んでしまいました。

その息子のJohnElmer Hopperと2人でミルス・ブラザースを継いでいるのです。この2人とはそれ以前からメールで連絡を取り合っていたのです。

2人から「日本に行くぞ!」とメールが届きました。「Yoshiが呼んでくれた」と書いてありました。

10月10日、もんプロの30周年で六本木のスイートベイジルでパーティがあり、私はまた呼ばれて行きました。「100人はお客が来ないと赤字になります。何人増えても結構です」とメールが来ていました。フレッシュメンのファンクラブの連中を誘ってくれというのですが、FFSの連中は呼んだって来やしません。「それは無理だよ」と西蔭さんに返事をしてやりました。人集めに大騒ぎしていたのを思い出します。でも、何とか集まったみたいでした。

当日のゲストは、来日中のマリナ・ショーとミルス・ブラザースです。お祝儀に何曲か歌うというわけです。私は彼ら2人に会いに行くと約束がしてありました。向かって左がJohn Mills II、右の大男がElmer Hopperです。実に不思議なつながりです。

西蔭さんとはいろいろなライブで会いました。自分がプロモートしたライブには必ず顔を出すからです。私にとっては、いいミュージシャンを呼んでくれる嬉しい存在でした。彼のような変わり者の招び屋はもう2度と現れないような気がします。西蔭さんの冥福を祈ります。(2009/12/29)


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