MEMBERS
小島 恂(まこG)
KOJIMA Makoto
Baritone
Born in 1942
Died in 2017
若山邦紘(わかG)
WAKAYAMA Kunihiro
Tenor
Born in 1941
清田 滋 (きよG)
KIYOTA Shigeru
Tenor
Born in 1950
 

大原江里子(えりちゃん)
O'HARA Eriko
Arranger, Piano

小針美矢子(ことり)
KOBARI Miyako
Manager

メンバーのプロフィール

まこG:某電2広告会社定年により現在は某電気紙芝居番組制作会社専務から顧問。それも2011年6月で退職した。学生時代は体育会水球部ゴールキーパー、コーラス歴ナシ。歌も人前では唄わず。ただし、ダークやグレイセスがまこGの父親にレッスンを受けるところを見聞していた。何と言っても、このグループの創設者、一番人望が厚い。なぜか?それは練習のたびに、コーヒーをみんなに買ってきてくれるから。4人の中で一番練習に熱心だ。ゴルフのハンデ8。沖縄はじめ地方のツアーコンダクター、タクシーの抜け道案内が特技。イベントのステマネはプロ。バランス感覚に優れ、お酒は強く乱れず。OZSONSのゴールキーパー。この間、モデムと無線ルーターの電源ケーブルを差さずに「サーバーにつながらない」といって、わかGがPCの往診に出かけた。典型的アナログ人間。

きよG:Lという字のつく某有名コンビニ役員だったのだが、期待されて薬品販売会社常務に引っこ抜かれたが、何を思ったかスパッと辞めて学習塾の経営者で平日夜は忙しい。現在はその塾も畳んでしまった。学生時代のコーラス歴ナシ。昔からソロでフェイクするのが大好き人間、譜面は読まず眺めるものと思っている。すべて耳と勘に頼る。4人の中では最も年が若い。勝手に唄っていてコーラスになったらいいと、面白いことを考えている。マヌエラの開店以前からマヌエラの常連。誰も知らない歌手やグループのCDを掘り出してくるのが特技。時にはヒットがある。仕事では理論肌だが歌は感性。お酒は適度に気持ちよく。

わかG:某有名私立品行方正な大学の教授だったが、2011年3月70歳定年退職した。学生時代は音楽の勉強のために混声合唱団に籍を置き、中学・高校時代から歌える友人を家につれて来てはコーラスを口移しで無理やり教えていた。高じて大学でオペレーションズ・リサーチ(経営科学)を42年間も無理やり教えてきた。コーラス歴は永い。グループのレパートリーの一部はわかGのアレンジ。プロの専属アレンジャーの片腕になっているつもり。4パートを唄いこなす多重録音一人コーラスが特技。ものづくり、物書きを厭わずは本職だから。性格は粗忽だが音楽は緻密。お酒は何でもOKだがなめる程度。一時、血圧の薬で声帯に隙間が開いてしまった。バカな医者が言った。「加齢です」だと。

えりちゃん:オージーサンズの面倒を見続けてきた。武蔵野音大卒。八城一夫にジャズピアノを師事し、才能を認められアテネ音楽院の講師を10年間務めた。その後ジャズピアニストとしてライブ活動を始め、ソロピアノ、バンドリーダーとして活躍。コーラス・アレンジに長け、プロ・アマのコーラス・グループを育成してきた。何とその中でオージーサンズが誰よりも古い。それだけ爺だということ。現在は、神楽坂のピアノレストラン「もりのいえ」の専属ピアニストとしても演奏している。

鈴木史子
(おふみ)
SUZUKI Fumiko
Guest Vocal
プロ歌手、鈴木史子はOZSONSの専属ゲスト歌手で、OZSONSは鈴木史子の専属バックコーラスという関係。オージーサンズ一家の旅行には、トラを入れてでも、どこでも一緒に行く。ドーシー楽団のシナトラとパイドパイパース。いや、ジョー・スタッフォードか。軽井沢合宿も皆勤。まあ、家族みたいなもんです。
栗本滋雄
(くりG)
KURIMOTO Shigeo
Bass
Born in 1946
上山 隆が自分が辞めるときに送り込んだのがくりGだった。すぐに台湾に転勤となり、2001年に帰国し3人で歌っていたOZ SONSに入ってきた。以来、2013年の最初にして最後のオージサンズ・コンサート、続いて史子さんのKeep Shining 6のサントリーホールと大舞台を無事済ませた。2002年から東京バーバーズのメンバーとなって、今はバーバーショップの専任。
西尾始郎
NISHIO Shiro
Tenor
Born in 1951
普段は練習には参加ができない。それでも、最近でもないが2003年3月、世良譲のライブ応援のとき、北海道転勤中の清田が駆けつける前のセットではピンチヒッターを務めた。困ったときには「いやだ!」と言って出てきた。創設メンバーの一人。
No.3時代にメンバーであった上山 隆(上山高史)は、還暦を迎えサラリーマン生活を終えて、かつて子供時代、大学卒業間もない時代にそうであったように、またプロ歌手としてデビューしたのです。

一生に3回プロデビューした人は世界でも珍しいのではないでしょうか。歌はめちゃめちゃに上手いですし、永年の年輪が歌の説得力となって表れます。そんな歌い手も一度はわれわれのメンバーだったのです。

オージーサンズが形成されたのはグループNo.6の時代です。したがって、それ以前はオージーサンズの紀元前と呼んでもいいでしょう。No.6は自らを「おじさん合唱団」をもじって”OZ SOUNDS”と名乗ったときが一度だけあります。1997年、栗Gが海外転勤となり、さらに、西尾が業務多忙となり、やむなくメンバーから外れることになりました。そして、急遽、若Gが加わり3人で頑張ってきたのです。

1991年結成以来、延べ8人のメンバーが入れ替わりましたが、栗Gが海外駐在から帰国して、2001年4月にようやくカルテットに復帰しました。オージーサンズ紀元前のメンバーの中には「自分はオージーサンズのメンバーという意識はない」おじさんがいるかもしれませんが、ここにコーラス・グループが生まれた時代のメンバーとして名を連ねさせていただきます。

Era #
Members
Year Remarks
BO
No.1
小島、西尾、笠井、武田
1990.12
翌年湾岸戦争突入日が初練習
No.2
小島、西尾、笠井
1993
武田病気、お守役は大原江里子に
No.3
小島、西尾、上山、清田
1996.6
上山、清田加入 
No.4
小島、西尾、清田、栗本
1997
上山再々プロデビュー、栗本加入
No.5
小島、西尾、清田
1997.4
栗本台湾転勤(97-01)
  No.6
小島、西尾、清田、若山
1997.7
若山加入、西尾業務多忙、3人で練習
AO
No.7
小島、清田、若山
1998.1
小島沖縄転勤(00-02)練習は月に1度
No.8
小島、清田、若山、栗本
2001.4
清田札幌/仙台転勤(03-05)
No.7 小島、清田、若山 2014.1 ヤマハで1曲飛び入り以降3人で細々と
    2017.6.2 創設者、小島 恂 死去
    2017.9.18 オージーサンズお別れ会