歌をつくる人にまつわる話
The Story of Songwriters

(37) Kurt Weill  Mack The Knife

Kurt Weill(1900 - 1950)

クルト・ワイルはユダヤ系のドイツ人でDessauに生まれました。デッサウにはバウハウスと呼ばれた美術・工芸・建築の学校が1925年にこの地に置かれました。1902年にベルギーの建築家ヴァン・デ・ヴェルデがワイマール大公に招かれ設立した美術工芸学校であります。

六本木にバウハウスというロックのライブハウスがありますが、どういう関係なんでしょうか。

バウハウスはナチスが台頭する1933年には閉鎖に追い込まれます。進歩的・合理的なものの考え方やモダニズムはナチス主義とは相容れなかったためです。

20歳の時に「交響曲第1番」を書いています。初期の頃はクラシックの作品がずらりと並んでします。その後、劇場音楽に関心が向けられるようになり、1928年には劇作家のBertolt Brechtと組んでオペレッタ「三文オペラ(Die Dreigroschenoper)」を世に出しました。

「三文オペラ」には、その下敷きとなった「乞食オペラ」という1700年代に演じられていたイギリスの喜歌劇があります。三文オペラの主人公は「匕首マック」という、食っていくためには平気で罪を犯すという男です。「腹がへっていて道徳なんて…」という精神です。

当時の権力者が搾取をするという資本主義を風刺した作品となっています。舞台はロンドンのスラム街です。その主題歌となったのがあの「マック・ザ・ナイフ」というわけですが、これには”Moritat(殺人鬼)”というタイトルがつけられていました。

ワイルはナチスのユダヤ人迫害を逃れて、1933年にはフランスに亡命、1935年にはニューヨークに渡ることになります。34年には最後の器楽曲となった「交響曲第2番」を完成させ、ブルーノ・ワルターの指揮でニューヨークとアムステルダムで演奏されたということです。

アメリカに移住してからは、ポピュラー音楽、とりわけミュージカル作品を多数残しています。「Lady in the Dark」、「Love Life」、「One Touch of Venus」などがあります。

「三文オペラ」は英語版「The Three-Penny Opera」が1933年に上演されますが、ヒットしませんでした。しかし、1952年に脚本を新しくし、バーンスタインの指揮で上演されて好評で、54年にオフ・ブロードウェーで95回も公演されてヒットしました。翌55年から6年間2611回続いたそうです。このときには、すでにワイルは亡くなった後で、彼の未亡人のレーニャがマックの相手ジェニー役を演じました。

「マック・ザ・ナイフ」は、まず1957年にルイ・アームストロングが大ヒットを飛ばし、59年にボビー・ダリンの200万枚のヒットでグラミー、60年にはエラ・フィッツジェラルドの「エラ・イン・ベルリン」ではジャズ・ボーカルの定番となる演奏となり、これもグラミーを獲得しました。これらは、Marc Blitzsteinが56年に書いた英語の歌詞です。

マック・ザ・ナイフの最後の一節は「あのマッキーが、街に戻ってきたんだ!」

Now that Mackie's back in town.

そう、刑務所から脱獄して戻ってきたのです。

この歌の歌詞には、
「判らないところにナイフを隠し持っている」だとか
「日曜の朝に血だらけの死体が歩道に転がっている」だとか
「タグボートから投げ入れられたセメント袋は錘に使ったんだろう」だとか
「ルイ・ミラーが現金を引き出した後に姿を消した」だとか
「マッキーは金使いが荒い、早まったことをしでかしたのだろうか」だとか
尋常ではない内容の歌詞が何番も続きます。

犯罪の匂いのする歌です。

ワイルの死後、数年後、10年後、この歌は大ヒットしたのです。

”My Ship””Speak Low”もワイルの作曲になる歌ですが、いずれも素人が唄うには難しい歌です。昨晩のことです。リトル・マヌエラで2年半ぶりに広島から遠来のお客さんが「Lady in the dark」よろしく、艶っぽい”My Ship”を見事に唄いました。それで、Kurt Weillを思い出したというわけです。2008/6/22


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