ジャズと歴史にまつわる話

カンザス・シティのジャズ 
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William “Count” Basie(1904-1984)

イラスト:藤田はるえ(山口県光市)

1920年代の終わり頃から、ミズーリのカンザス・シティでジャズが大流行します。ここカンザス・シティだけは禁酒法時代にもかかわらず、民主党の悪徳政治家トム・ペンダーガストTom Pendergastがいたおかげで州知事も警察も何もあったもんじゃあなく,賭博場もあったし、ナイトクラブもキャバレーもあり酒も大っぴらに飲めたというのです。人々が集まって来るわけです。シカゴでは地下のもぐりの酒場で控えめな音しか出せませんでしたが、ここカンザスではエキサイティングな音でガンガンやってしまったのです。このとんでもない政治家はシカゴのギャング以上ですね。

Harry Trumanはペンダーガストに応援されて、後には大統領にまでなりましたが、いろいろなゴシップ話が書かれたものが沢山あります。ここでは政治の話はするつもりはありませんが、お好きな方は、トルーマンとペンダーガストにまつわる本が出ています。

しかし、1933年には悪法名高い禁酒法も廃止となり、カンザス・シティの存在意義は徐々に薄れていきましたが、1939年に脱税の罪で豚箱にぶち込まれるまで、カンザス・シティは歓楽の街として栄えていました。

ここでのスターは何といってもカウント・ベイシーです。1927年にカンザス・シティにやってきてベニー・モーテン楽団に入りました。1935年にベニー・モーテンが亡くなり、カウント・ベイシー楽団となります。

 


Club Reno

"Queen of Kansas Clubs"と呼ばれたClub Renoは、レスター・ヤングがカウント・ベイシー楽団をバックに演奏するところを、若かりしチャーリー・パーカーが聴き入っていたという光景が見られたそうです。

また、巨大なダンスホールもありました。ダンサーが2000人とか3000人とかいうのですから我々には想像がつきません。

The Pla-Mor Ballroomではジャンゴ・ラインハルトもカウント・ベイシーも出ていましたし、ホーギー・カーマイケルもここのハウスバンドのメンバーだったのです。

既にジャズの中心はニューヨーク、1937年にはベイシーもニューヨークに進出いたします。


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